他人事ではない。僕が関わってきたのがテレビ報道の仕事だから、この映画には既視体験のような部分さえある。あの日のことを思い出す。2001年の9・11同時多発テロ事件だ。
あの日、僕らは無我夢中でテレビ局のサブ(副調整室)の中で、NYの貿易センタービルが倒壊するさまを生中継していた。戦争や「テロ事件」を、スポーツ中継のように報じることが、かつてあったし、今もある。これからもあるのだろうか。一人一人が問われている。
1972年ミュンヘンオリンピックで起きたテロ事件。その一部始終を生放送したテレビ局の副調整室(サブ・コン)で起きた物語。断片的な情報の裏どり。映像取材体制や伝送経路の確立。長時間のアドリブ放送…。私も幾度となく体験したが、映画が描くリアルさは本物だ。
ほぼ全編を占める暗いサブ・コンのタイトな映像が、限られた情報しかない中、命に関わる判断を迫られたテレビマンたちの緊迫した心理を描き出す。
テレビジャーナリズムのパワーと危うさを教えてくれる力作だ!!
世界中が注目するオリンピックの最中に起きたテロ事件。しかも「全世界同時生中継」が実現してまもない時代です。目の前で起こっている出来事を、どこまでテレビは報じていいのか?
警察の介入には従うべきなのか? もしも不幸な出来事が起きた場合は?
それまで誰も直面したことのなかった難問に挑んだのが『セプテンバー5』の主人公たちでした。メディアの価値が揺れる現代日本だからこそ、多くの人に観て欲しいです。
90分とは思えない密度。描き出される当時の緊張と肌が粟立つ不穏な状況はあまりにリアル。戦後の空気、ドイツという場所、ユダヤ人と中東情勢、そしてオリンピックにかける希望と思惑、たくさんのものが複雑に絡み合っていたのが1972年なのだとよくわかります。
そんな現場をテレビで放映することには、どんな責任、使命、罪があるのかテレビに関わる1人としてボディーブローのように効いてます。
間違いなく傑作です。
誰でも発信ができる時代だからこそ、誰が発信するべきなのかも考えたい。
かつて私は、誰もが発信するメディアが希望だった。
しかし、今は違う。誰が発信しているのか、その責任の所在を明らかにせねば世界の分断に使われ、消費され終わってしまう。マスメディアは、その「誰が」を名乗れるだけの責任を背負っているだろうか。
この映画が発信する、強烈な批評を正面から受け止められる人物でありたい。
今作は衛星中継に関わるスタッフが、“実際に見たものしか描かない”というルールの基に作られている。現場の様子を伝える無線の音声や、遠くに聞こえる銃声。それは、観客の想像力を喚起させ、「中継スタジオに届く情報」=「観客が知り得る情報」という公式を導く由縁にもなっている。優先すべきは視聴率か、それとも倫理なのか?事件から半世紀が過ぎ、史実を知らない世代に再考させる意義がこの映画にはある。
局アナ時代、実際に人質事件の生放送を体験したが、このシビアな感覚は他人にはわからないと感じていた。しかし、この作品は生放送のスタッフの興奮を見事に描いている。ディレクターの隣に座っているかのような臨場感と細部までこだわりぬいた結果生まれる緊張感。「あなたがディレクターなら、次はどうする!」とスクリーンが問いかけてくるのだ。
イスラエル情勢が不穏な現在に、パレスチナ過激派組織によるイスラエル人虐殺事件を生々しく描いた作品が登場した文脈は重い。
本作の極限の緊張感は、現在の世界と共振して、スクリーンのこちら側の観客を揺さぶり続ける。これは、息もできない95分間。
オリンピック開催中に起きたテロ事件をライブ中継したのが、報道局ではなくスポーツ局だったところが、成り行き上必然的というか、画期的というか。テロリストの実像云々より、TV局内のパワーバランスに注視した本作は、時代を巻き戻してTVの未来を予言しているようで、”なるほど”と思ってしまった。
個人も“メディア”化し、マスメディアの役割が一層問われる今。たった1日、テロ事件を世界発信した報道と無縁のスポーツ番組クルーの内幕から、報道の持つ力と意味がつぶさに理解できる。全世代の人が観るべき傑作
緊迫の生中継が浮かび上がらせる、報道に関わる者の矜持。対立によって、罪のない人たちの命が奪われる悲劇。胸に突き刺さるすべてが、“現在”に通じる。現地採用スタッフ・マリアンネに託された戦後ドイツの願いが痛切だ。
時々刻々と移り変わる状況に息を詰めさせる一級のサスペンスでありながら、自分自身の仕事への向き合い方も見つめ直させてくれる傑作。必見!
ナチスによる大罪を乗り越え和解の場となるはずだったミュンヘン五輪
SNSは存在せずテロリストの肉声は聞こえない
しかしユダヤ人とパレスチナ人の積年の対立がもたらす
深い憎しみが現代に生きる我々に突き刺さる
一個人がメディアと化す今こそ
「報道の自由」のあるべき姿に思いを寄せたい
最高におもしろい! 有名な実事件に遭遇したテレビクルーたち。どう撮るか?放送すべきか? 瞬時の判断の連続が生むスリルと緊張感にアドレナリン全開で釘付けだ。報じることは正義か否か。報道が背負う十字架の重みもズシリと。
主役はTVクルー、舞台は概ねモニタールーム。渋い!たしかに渋いが、こういう映画も年に何本かは観たい。みなぎるサスペンス、静かにしかし熱いドラマがぎゅっと濃縮された上映時間95分はあっという間。マスメディアの役割とは? 倫理とは? 可能性とは? そんなことを考えつつ、スピルバーグの『ミュンヘン』とあわせて観れば、さらに理解が深まるはず。
ミュンヘン・オリンピックの悲劇の現場で、その時一体何が起きていたのかを詳らかにしていくサスペンスだけでも緊張感満点!
加えて「今そこで起きているテロ」をどう報じるべきか?というマスメディアのジレンマを炙り出す脚本も巧い!
一大事に出くわしたTVクルーを演じる俳優陣もそれぞれの立場を明確に捉えた熱演で、
どこを取っても一級品の風格を持った秀逸作だ!
ミュンヘンオリンピック開催中に発生した「黒い九月事件」の発生から終結までをTVクルーの視点で描く。中継スタジオを包み込むヒリヒリとした張り詰めた空気に息が詰まる。脚本、撮影、俳優陣も素晴らしい。
伝える側の覚悟だけではない、見る側の覚悟も問われる。氾濫する「情報」に溺れてしまいそうな現代、まさに必見。そして、今一度、自身に問いたい。真実とは何かと。
ミュンヘン五輪の事件は、当時テレビや新聞で大々的に取り上げられたので、記憶に残っていました。しかし、当時小学生だった私には何のことだかよく分からなかった。今回「セプテンバー5」を見て、事件の全貌について学び、ABCクルーのジャーナリスト魂と機知に富んだ対応を知って大興奮。思わず、立ち上がって拍手しそうになりました(しなくて良かった)。まさに、テレビ史に残る大事件。その映画化に感謝です。
オリンピックウォッチャーの私もその出来事を詳しく知ることなかった1972年。ですがミュンヘンオリンピックという響きに影があることは小さい頃から感じていました。現場の緊迫したやりとり、葛藤、クルー全員の熱量、どれも今の放送現場にあるのだろうかと考えます。恐ろしい映画です。
フィルムの質感のまま、表現された90分に惹きつけられた。スタジオ調整室のスタッフの一員のような気持ちに。
生放送という、リアルタイムで極限の選択を迫られる中でベストを尽くす。だが、決して完璧な放送は成し得ない。そんな放送人の宿命に共感した。この映画は「神の視点」では描かれない。今、何が起きているのか?何を伝える?ここには「魂」があり「フェイク」はない。
会話劇を中心に終始緊迫した演出で観客を引き込む手に汗握るドラマ。不安定な現代の世界情勢にも直結する実話を基にした物語は観る者に「あなたはどう思う?」と問いかけます。傍観者が伝えたいストーリーは誰のものなのか?メディアに携わる身として、その責任についても考えさせられました。
スピルバーグの「ミュンヘン」とはまた違った角度で、マスコミ側から見たあの事件を1972年という時代の空気と共に見事に再現しており唸りました。全世界注目のなか突如起こる異変をどう伝えるか?をスリリングな緊張感で味わう濃厚な作品。全てを見せるのか見せないのか、倫理はいつの時代も正しい正解なんて決してあり得ない。
『セプテンバー5』は黒澤監督のサスペンス映画『天国と地獄』で身代金を車窓から投げ落とす、ハイテンスな特急こだまのシーンが95分間続くような感じだ。
初めてリアルタイムで映し出された""テロリズム""
何が正解で、何が間違いだったのか、今となっては分からない。
彼らが紡いだ物語が、言語の壁を超え、世界を変えたことは事実だ。
“知る人ぞ知るミュンヘン五輪の裏側”で終わらせなかったマスコミの英断。あの日、生中継をしたことは昨今のジャーナリズムに多大な影響を与えたに違いない。
生放送の臨場感も含めて、必死に過ちを伝えようとするマスコミ界を映した最高峰の作品を観て欲しい。
誰もが情報の発信者になり得る現代に、この作品が公開される意義を強く感じました。
当時9億人が観た放送史に残る生中継。
凄惨なこの事件を伝えた裏側にあったのは正義感だけではありませんでした。
誰かの嘘が拡散され、真実になり変わるインターネット社会。
全員が情報の扱い方に責任を持たなくてはいけないなと痛感させられました。
当局発表、フェイク、報道協定の在り方、時代は変わり、インターネットの時代でも、何をどう報じるかは変わらない。目の前の出来事をありのままに伝えること、正確な情報を伝えること。半世紀前の先人たちの姿は、メディアがどうあるべきかを考え続けなければならない、と教えてくれている。
報道とは、伝えるとはどういうことなのか、言葉ひとつひとつの責任と重さ・・・「考えさせられました」というのは、感想を述べるときによく使われる言葉ですが、この映画に関しては、考えさせられることがあまりに多くてくらくらしました。
現場からの生中継は、テレビの醍醐味だ。
何が起きるか分からない面白さ、そして怖さ。
伝える側の私は、覚悟をもって臨まなければならない。
そのことを改めて胆に銘じた。
この場面で、自分だったらどうするか。このセリフは言えるか。
問いを突き付けられながら、濃密な疑似体験をした。
過去の出来事だが、明日の我が身だ。
観る者の倫理観が試される。
50年前の事件が突きつける選択は、瞬時に情報が拡散されるSNS時代にも通じている。
誰もが発信者になれる今、情報拡散の自由と責任をどう考えるべきか
報道の在り方だけでなく、私たち自身の価値観を見つめ直すきっかけになる作品です。
「いま、ここで起きていることを伝えなければならない」――その想いはどこから来るのだろうか?
使命感だろうか。切迫感か。そこには、「スクープを撮りたい」という欲望以上の何かがあるはずだ。
報道に携わる者の迷いや葛藤を生々しく映しだすこの映画は、世界とどのように向き合うべきか、わたしたちに再考させる
「閉塞」の舞台設定にまず惹き込まれる。瞬く間の90分を堪能した。歴史的な事件の決定的瞬間を世界に伝えようとする使命に共感した。同時に「自分ならばどうする?」という重たいブーメランに慄いた。作品中、最も考えさせられた言葉がある。それは「物語」。この言葉の意味を深く感じとり、考え抜いて欲しい。
ミュンヘンオリンピックでパレスチナ武装組織がイスラエル選手団を人質にしたテロ事件。
アメリカのテレビ局はスポーツ中継をニュース報道へ切り替えた。
生中継できるのは競技場近くにいる俺たちのクルーだけ。でも人質殺害の瞬間が映るかもしれない…
緊迫した副調整室で起こるドキュメンタリーを見るような興味深い作品だ。
「早く解放してくれ……」。恥ずかしながらミュンヘンの悲劇を知らず、祈る気持ちで結末を見届けた。有事こそ冷静さを求められるマスメディアが、気づかぬ内に「特ダネ競争」という名の〝ゲーム〟に陥れば、人命や事実の裏付けの軽視に繫がってしまう。
半世紀が経ち、報道する側はどれだけこの痛みを教訓にできているのか。そして、簡単に情報が発信できる社会では、誰もが危うさと隣合わせだと我々に突きつける。